西郷隆盛の銅像はなぜ着物姿なのか?妻が漏らした違和感の真相
東京・上野恩賜公園のシンボルとして、120年以上にわたり親しまれ続けている西郷隆盛像。観光客や修学旅行生が足を止め、記念撮影に興じる定番スポットですが、その姿を改めて見つめると一つの素朴な疑問が湧き上がります。明治維新を成し遂げた陸軍大将という最高位の軍人でありながら、なぜ威厳ある軍服ではなく、無防備ともいえる着流し姿で犬を連れているのでしょうか。
この銅像の除幕式で、西郷の妻である糸(イト)が「うちの宿父(夫)はこげんなお人じゃなかつた」と呟き、周囲を慌てさせたエピソードは歴史愛好家の間でも広く語り継がれています。さらに、故郷である鹿児島市・城山に建つ威風堂々たる軍服姿の銅像とは、身にまとう空気すら決定的に異なります。なぜ上野の西郷像はこの姿で造られたのか、そしてなぜ西郷には本物の写真が1枚も残されていないのか。彫刻家・高村光雲の手記や幕末・明治期の一次資料を紐解きながら、国民的アイコンに隠された歴史の真相を浮き彫りにします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:上野の西郷像は浴衣ではなく「ウサギ狩りの狩猟着」であり、賊軍の将としての政治的摩擦を避け、親しみやすい国民的英雄像を提示するための苦肉の策だった。
- 要点2:妻・糸の発言「宿父はこげんなお人じゃなかつた」の真意は、顔の似醜だけでなく「人前や公の場に普段着のままで出るような無作法な人ではなかった」という武士の礼節に対する強い当惑である。
- 要点3:西郷には生前の本物の写真が1枚も存在せず、エドアルド・キヨッソネが親族の顔を合成して描いた肖像画をベースに、上野と鹿児島でまったく異なる政治的メッセージを帯びて銅像が制作された。
【歴史の謎】上野公園の西郷隆盛像はなぜ着物姿なのか?浴衣説の真相
上野公園に立つ西郷隆盛像について、世間では「浴衣を着て散歩している」と語られる場面が少なくありません。しかし、当時の風俗や風下を調べると、この認識は誤りであることが分かります。像が着用しているのは浴衣(湯上がり着や寝間着)ではなく、薩摩絣(さつまがすり)の羽織を端折った「狩猟着(ウサギ狩りの衣装)」です。
腰元をよく観察すると、帯にはしっかりと短刀が差されており、足元は草鞋(わらじ)履き、右手には手綱が握られています。西郷にとってウサギ狩りは単なる趣味ではなく、極度の肥満に悩まされていた彼にとって、侍医から勧められた真剣な健康療法(運動療法)でもありました。野山を駆け巡り、獲物を追う日常のリアルなワンシーンを切り取った造形なのです。
では、なぜ国家の元勲を顕彰する記念碑に、フォーマルな正装ではなく狩猟着が選ばれたのでしょうか。その背景には、明治という時代の複雑な政治状況と西郷隆盛銅像建立の経緯が深く横たわっています。
西郷は明治10年(1877年)の西南戦争において、明治新政府軍と戦って敗れ、城山で自刃しました。つまり、近代国家の法制度上は「朝敵(賊軍の首魁)」という重い烙印を押された人物でした。転機が訪れたのは明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって名誉回復がなされ、正三位を追贈されたことです。
その後、かつての盟友であった吉井友実ら元薩摩藩士が中心となり、西郷の銅像を建てる計画が動き出しました。しかし、政府内や軍部には西南戦争で家族や部下を失った関係者が数多く残っており、「国家反逆の首謀者を軍服姿で称えること」には根強い反発が存在しました。そこで選ばれたのが、軍事色や政治性を完全に脱色し、大衆に愛された「無私の豪傑」「庶民的な西郷どん」を象徴する狩猟姿だったのです。

「うちの宿父はこげんなお人じゃなかつた」妻・糸が漏らした発言の真相
明治31年(1898年)12月18日、冬晴れの上野公園で執り行われた盛大な除幕式。政府高官や旧薩摩藩関係者が集う中、紅白の幕が引かれ、巨大な銅像が白日の下に姿を現しました。その瞬間、西郷の3人目の妻である西郷糸(イト)が思わず漏らした言葉が、周囲を凍りつかせました。
「うちの宿父(しゅくふ=夫)はこげんなお人じゃなかつた」
この発言は長年、「銅像の顔が本人の顔立ちに全く似ていなかったことに対する抗議」として受け取られてきました。確かに、西郷の没後に記憶と親族の容貌を頼りに制作されたため、顔立ちの完全な再現は極めて困難でした。しかし、歴史学的な検証や当時の薩摩武士の文化規範を照らし合わせると、糸の衝撃は単なる外見の違和感だけではなかったことが浮き彫りになります。
薩摩の郷士社会において、武士の妻は夫の「公の場での格式と名誉」を何よりも重んじました。西郷隆盛は礼節を重んじる厳格な武士であり、たとえ身内や親しい間柄であっても、公の場に下帯が見えそうなだらしない普段着で姿を現すような人間ではありませんでした。糸にとって耐え難かったのは、「天下の英雄と称えられた夫が、何万人もの大衆が拝礼する公衆の面前で、人前には決して出さないはずの狩猟着・部屋着同然の格好で晒し者にされている」という屈辱だったのです。
後見人として立ち会っていた従弟の大山巌らが慌てて糸を宥めたと伝えられますが、糸の言葉は、国家が作り上げた都合のよい「西郷どん」の虚像に対する、最も身近にいた妻からの無意識の異議申し立てだったといえます。
西郷隆盛に本物の写真がない理由とエドアルド・キヨッソネ肖像画の秘密
大久保利通、木戸孝允、板垣退助など、維新の英傑たちが凛々しい古写真を数多く残しているのに対し、西郷隆盛には本人の写真が1枚も存在しません。教科書に掲載され、日本国民の誰もが思い浮かべるあの太い眉と鋭い眼光の肖像は、写真ではなく絵画です。
なぜ西郷はこれほど徹底して写真を残さなかったのでしょうか。主な要因として、以下の3点が挙げられます。
- 防諜と暗殺への強い警戒:幕末から明治初期は要人の暗殺が日常茶飯事であり、政府の最高指導者であった西郷は、自身の顔写真が敵対勢力に渡ることを極度に嫌った。
- 魂を奪われるという迷信の忌避:当時の薩摩出身者には写真に対する強い警戒心を持つ者が多く、肖像を残すこと自体を拒む頑固さがあった。
- 徹底した無私と自己顕示欲の欠如:「功績を誇らず、名を残さず」を貫いた西郷自身の哲学から、己の姿を後世に残すことに関心を示さなかった。
写真が存在しない状況で、私たちが知る「西郷の顔」を定着させた立役者が、大蔵省印刷局のお雇い外国人であったイタリア人画家、エドアルド・キヨッソネでした。明治16年(1883年)、キヨッソネは西郷の肖像画を依頼されますが、本人はすでに亡くなっています。そこで彼が取った手法は、現代でいう「モンタージュ作成」でした。
キヨッソネは、西郷隆盛の実弟で顔の上半分が酷似していた西郷従道をモデルに目元や眉を描き、従兄弟で顔の下半分が似ていた大山巌をモデルに鼻や口元、がっしりとした顎のラインをスケッチしました。これに親族や生前を知る人々の証言を重ね合わせ、1枚の肖像画へとまとめ上げたのです。
このキヨッソネによるコンテ画こそが、上野公園の銅像をはじめ、日本中に広まった「西郷隆盛の顔」の絶対的な設計図となりました。つまり、私たちが親しんでいる西郷の容貌は、血縁者の骨格を組み合わせた精緻なフィクションの上に成り立っています。

高村光雲の苦悩と愛犬「薩摩犬ツン」に隠されたモデル違いの真相
上野公園の西郷像の制作を任されたのは、近代日本彫刻の父であり、詩人・高村光太郎の父としても知られる高村光雲でした。当時の彫刻界を牽引していた光雲にとっても、この依頼は生涯最大の重圧を伴う大事業となりました。
自著『光雲懐古談』の中で、光雲は制作当時の苦悩を克明に告白しています。写真が一枚もない人物の巨大像を彫るにあたり、光雲はキヨッソネの肖像画を基本としながらも、西郷の旧知の人物たちを仕事場に招いて意見を求めました。しかし、集まった元薩摩藩士や知人たちは「眉がもっと太かった」「いや、こんな目つきではない」「もっと温厚だった」と口々に異なる証言を展開し、修正を繰り返すごとに像の統一感が失われ、作業は難航を極めました。
最終的に光雲は、個別の細かな記憶を捨て、「大衆が抱く西郷南洲の精神性」を造形として具現化する決断を下します。堂々たる体躯の迫力を表現するため、足元から見上げた際に自然な遠近感が得られるよう、上半身や頭部をやや大きめに設計する独自の遠近法補正を施しました。
一方、西郷の傍らで愛嬌を振りまく犬の銅像は、動物彫刻の大家であった後藤貞行が担当しました。西郷が溺愛した薩摩犬の名は「ツン」。薩摩半島でウサギ狩り用の名犬として譲り受けた実在の愛犬です。
ところが、この銅像の犬には驚くべき秘密があります。実在の「ツン」は耳がピンと立ったメス犬でしたが、上野の銅像の犬は垂れ耳のオス犬として造形されているのです。
後藤貞行が犬の制作に取り掛かった際、本物のツンはすでに死亡していました。後藤は薩摩犬の特徴を再現しようと鹿児島から犬を取り寄せようとしましたが間に合わず、止むを得ず勝海舟が飼っていた洋犬や、近隣で見つけてきた別の薩摩犬系雑種をモデルにしてスケッチを進めました。さらに、巨大な西郷像の足元に置いたときの視覚的なボリュームと勇猛さを優先した結果、骨格のたくましいオス犬の特徴が反映され、垂れ耳の独特な姿へと変貌を遂げたのです。
【徹底比較】上野公園と鹿児島・城山の銅像|姿・意図・スペックの違い
日本国内にある西郷隆盛の大型モニュメントとして、上野公園と双璧をなすのが、西郷の終焉の地である鹿児島市・城山の麓に立つ銅像です。両者を比較すると、同じ歴史上の人物を顕彰しながら、制作の思想的アプローチが完全に対極をなしていることが分かります。
| 比較項目 | 上野恩賜公園(東京都) | 城山山麓・中央公民館前(鹿児島県) | 編集部の検証と歴史的見解 |
|---|---|---|---|
| 建立年 | 明治31年(1898年) | 昭和12年(1937年) | 上野の除幕から約40年後、軍国主義が台頭した時代に鹿児島像が完成。 |
| 担当彫刻家 | 高村光雲(犬は後藤貞行) | 安藤照(忠犬ハチ公像の作者) | ともに近代日本を代表する巨匠。安藤照自身も鹿児島出身の彫刻家。 |
| 服装と容姿 | 薩摩絣の狩猟着(着流し姿)、草鞋履き、連れ犬(ツン) | 大日本帝国陸軍大将の正装軍服、直立不動 | 日常の「人間・西郷」を描いた上野と、国家指導者としての「軍神・西郷」の対比。 |
| 像の本体寸法 | 約3.7メートル(台座含め約8メートル) | 約5.76メートル(台座含め約8メートル) | 城山の像は人物単体として日本有数の巨大さを誇り、下からの威圧感が際立つ。 |
| 建立の主目的 | 名誉回復に伴う国民的融和・親愛の象徴 | 没後50年記念、郷土の誇りと士気の高揚 | 賊名が完全に過去のものとなった昭和初期、故郷は堂々と陸軍大将の姿で顕彰できた。 |
鹿児島の城山にある西郷隆盛銅像を訪れる際は、城山 西郷隆盛銅像 アクセスを押さえておくと移動が極めてスムーズです。鹿児島中央駅から観光周遊バス「カゴシマシティビュー」に乗車し、「西郷銅像前」バス停で下車してすぐの場所に位置しています。鹿児島市電(路面電車)を利用する場合は「朝日通」電停から徒歩約8分で到着します。背後にそびえる城山の深い緑を借景に、直立不動で街を見据えるその巨躯は、上野の親しみやすさとは全く異なる冷徹なまでの迫力を放っています。

【深層分析】記念碑が映し出す近代日本の深層心理と集団的記憶
国家に反旗を翻した反逆者を、首都の最も格式ある公園の中心に、しかも普段着姿で据え置く。この世界史的にも極めて珍しいモニュメントの存在は、日本近代における「公と私」の分離と、民衆の集団的無意識を鮮明に映し出しています。
歴史社会学の視点から捉え直すと、上野の西郷像は明治新政府が意図した「プロパガンダの装置」であると同時に、敗者への鎮魂(判官贔屓)を巧みに国家統合へ昇華させた文化装置でした。靖国神社に祀られることが叶わなかった西郷の御霊を、皇室下賜の公園である上野の杜に「庶民の愛すべき巨人」として定着させることで、明治国家は西南戦争の深い傷跡を心理的に縫合したのです。
彫刻としての完成度を現場で検証すると、高村光雲の計算された空間演出が際立ちます。像の前に立つ観察者は、まず足元で愛嬌を振りまくツンに視線を奪われ、そこから見上げる形で西郷の圧倒的な肉体と、遠くを見つめる独特の眼差しに引き込まれます。政治的・軍事的なトゲを完璧に抜き去ったこの造形デザインこそが、没後1世紀以上を経ても人々の足を止めさせる強力な求心力の源泉となっています。
【プロの結論】上野と鹿児島、どちらを訪れるべきか?目的別の判断基準
現地取材と歴史的背景を踏まえ、旅の目的に応じた最適な見学基準を提示します。
- 上野公園の西郷像が向いている人: 維新の混乱を乗り越えた「庶民文化の空気感」を味わいたい人。東京観光の動線(国立博物館や動物園)を重視し、高村光雲による近代彫刻の遠近法補正や、愛犬ツンの造形美を間近で鑑賞したい人に向いています。
- 鹿児島の城山西郷像が向いている人: 明治維新の激動と西南戦争の軍事史を深く探求したい人。武士の棟梁・陸軍大将としての冷徹な気迫に触れ、幕末から西南戦争終焉の地(城山洞窟・南洲墓地)とセットで歴史の息吹を肌で体感したい人には、鹿児島現地への訪問を強く推奨します。
【西郷 隆盛 銅像】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:上野公園の西郷像の足元や頭部が大きく見えるのは、計算された造形ですか?
A1:はい、彫刻家・高村光雲が高度な遠近法計算を用いて意図的に施した補正です。巨大な台座(約4.25メートル)の上に立つ像を地上から見上げた際、頭部が小さく窄まって見えたり迫力が損なわれたりしないよう、上半身や頭部を実寸の比率よりもやや大きく、安定感のあるピラミッド型のプロポーションに設計しています。
Q2:西郷隆盛は実際に犬を何頭飼っていたのですか?ツンだけですか?
A2:西郷は大の愛犬家として知られ、生涯で数十頭の猟犬を飼育していました。特に西南戦争直前には十数頭の犬を同時に飼い、名前を一頭ずつ呼んで可愛がっていた記録があります。「ツン」はその中で最も気に入っていた薩摩犬のメスですが、ほかにも「シロ」「カヤ」などの犬を連れてウサギ狩りに興じていました。
Q3:なぜ上野の西郷像は着物に「短刀」を差しているのですか?
A3:帯に差されているのは人を斬るための武器ではなく、ウサギ狩りの獲物を捌いたり、藪を切り分けたりするための実用的な狩猟道具(小刀)です。当時の薩摩武士が山野へ狩りに出る際の標準的な装束を忠実に再現した意匠です。
Q4:鹿児島の城山にある軍服姿の銅像へ行く際、城山展望台から歩いて行けますか?
A4:歩いて下ることは可能ですが、城山展望台から銅像のある山麓(中央公民館前)までは高低差のある遊歩道を約20分ほど歩く必要があります。足腰への負担を避け効率よく巡るなら、周遊バス「カゴシマシティビュー」を利用し、「城山」バス停から「西郷銅像前」バス停へ移動するルートが賢明です。
まとめ:激動の幕末維新を生き抜いた「巨人の素顔」を読み解く
上野公園の西郷隆盛像が放つ独特の存在感は、単なる偉人の記念碑という枠組みを遥かに超えています。そこには、写真嫌いを貫いた西郷自身の哲学、最愛の夫の名誉を守ろうとした妻・糸の飾らぬ本音、そして敗者でありながら国民的英雄として愛された男をめぐる明治国家の苦心と政治的知恵が凝縮されています。
東京の上野恩賜公園で愛犬とともに散策する親しみやすい「人間・西郷」と、故郷・鹿児島の城山で直立不動のまま近代日本を見据える「軍将・西郷」。対極をなす2つの銅像を巡る旅は、教科書に書かれた歴史の表層を剥ぎ取り、近代日本が何を求め、何を忘れ去ろうとしたのかを深く問いかけています。次に上野公園を訪れる際は、ぜひ像の足元に立ち、その瞳が何を静かに見つめているのか、歴史の文脈とともにじっくりと確かめてみてください。 (出典: 西郷 隆盛 銅像(Yahoo!ニュース))